高島城をめぐる歴史と武将
写真:諏訪大社
諏訪社と諏訪氏
『日本書紀』に持統天皇が勅使を派遣したという記事が残る諏訪社(現諏訪大社)は上社と下社があり、日本有数の古さを誇る神社です。その諏訪の神を祀る神官が平安時代に武士化して「諏訪氏」を名乗ったとされています。諏訪社の最高位である「大祝」は諏訪明神の依り代としてあがめられ、祭政一致の支配者として君臨しましたが、上社の大祝を務めたのが諏訪氏でした。鎌倉時代には執権北条氏の得宗被官として重用されたり、室町時代には信濃国の有力な国人領主として勢力を伸ばしました。また一族には京都で室町幕府の重要な役職を務めた人物もいます。
諏訪氏略系図
諏訪氏城跡上原城
諏訪氏城跡桑原城
諏訪氏の滅亡と武田氏
戦国時代、諏訪氏と武田氏は武田晴信(信玄)の妹を諏訪頼重の正室に迎えて関係を強化していましたが、父信虎を追放した晴信(信玄)が天文11年に突如諏訪に侵攻しました。諏訪頼重は抵抗するものの降伏し、甲府に送られて自害し諏訪氏は滅亡、諏訪は武田領となりました。天正10年、信玄の子勝頼が織田信長に敗れて武田氏が滅ぶと、今度は織田氏の領有となりますが、信長も本能寺の変で斃れます。
このとき頼重の叔父の子で、上社大祝だった諏訪頼忠が本能寺の変を聞いて蜂起した諏訪の旧臣に迎えられて諏訪氏を復活、織田氏の勢力を諏訪から追い払って諏訪を取り戻しました。
図:城の移り変わり
茶臼山城跡
日根野氏の高島城築城
諏訪支配を復活させた諏訪頼忠は武田氏滅亡後の信濃支配を狙う徳川、北条両氏に挟まれますが、最終的に徳川家康に帰順し、諏訪領有を安堵されました。しかし家康の関東国替えに伴って武蔵国奈良梨・羽生・蛭川(現埼玉県)へ、のちに上野国惣社(現群馬県)に移されました。
かわって諏訪の領主となったのが、豊臣秀吉の家臣・日根野高吉です。高吉は諏訪湖畔の高島を城地と定めて天正20年(文禄元年)頃から築城にとりかかり、慶長3年にはおおよそ完成したものと考えられています。
写真:破却前の天守古写真(明治4年 竹田凍湖 撮影)
諏訪氏の旧領復帰
日根野高吉は高島城を築城し、領内統治の仕組みを作るなど領主としての足固めを進めましたが、慶長5年関ヶ原の合戦直前に死去します。跡を継いだのは子の吉明ですが、翌年に下野国壬生に移されました。そのあと諏訪を与えられたのが諏訪頼忠の子でそのとき惣社の領主となっていた諏訪頼水です。頼水は高吉の築城した高島城に入り、ここに諏訪氏による諏訪統治が約60年ぶりに復活しました。以来10代忠礼のときに明治維新を迎えるまで変わることなく諏訪氏が諏訪の領主として続きました。
写真:現在の高島城
明治の廃城と高島城復興
明治維新を迎え、旧支配体制の象徴である高島城は破却されることになりました。明治3年頃から城内の建物が順次払い下げられ、天守も明治8年に取り壊されました。破却後、本丸跡が「高島公園」として開放されましたが、それ以外は市街地化していきました。昭和45年、市民の熱意によって天守が外観復元され、門や櫓などもあわせて復興されました。
代々の高島城主
日根野 高吉
(ひねの たかよし)
(?〜1600)
美濃国の生まれ。はじめ美濃斎藤家に仕えましたが、父弘就の代から織田家に仕えたのち、豊臣秀吉の部将となりました。小田原攻めの戦功により諏訪を与えられ、高島城を築城しました。関ヶ原の合戦の直前に死去し、慈雲寺(下諏訪町)に葬られました。
日根野 吉明
(ひねの よしあきら)
(1587〜1656)
父・高吉の跡を継いで高島城主となり、関ヶ原の合戦には東軍として従軍しましたが、戦後に下野国壬生(栃木県)に移封となり、諏訪の領主としての在城はわずかの期間でした。
諏訪 頼水
(すわ よりみず)
(1570〜1641)
武田氏に滅ぼされた諏訪氏を復活させた諏訪頼忠の子。父とともに徳川家康に従い、武蔵国奈良梨(埼玉県)や上野国総社(群馬県)の領主となっていましたが、関ヶ原の合戦後諏訪を与えられ、旧領復帰しました。逃散した領民を呼び戻し、新田開発を奨励するなどして領内の回復に力を入れ、その後の藩政の基礎を築きました。
諏訪 忠恒
(すわ ただつね)
(1595〜1657)
大坂夏の陣に徳川軍に属して出陣し、天王寺の戦いなどで奮戦しました。その功により、戦後五千石の加増を受けました。藩主になってからは父頼水の施策を受け継いで干拓や新田開発を進め領内の生産力増大に努めました。
諏訪 忠晴
(すわ ただはる)
(1639〜1695)
宗門改の実施、知行制度の整備など藩の支配機構を整え、藩体制の確立に努めました。また文芸にも秀で、絵画を得意としたほか、『本朝武林小伝』などの著作があります。
諏訪 忠虎
(すわ ただとら)
(1663〜1731)
郡中法度、家中法度を出したほか、郡内の林改を行いました。父同様に好学の藩主でもあり、特に俳諧に優れ「闡幽」と号しました。
諏訪 忠林
(すわ ただとき)
(1703〜1770)
分家の旗本諏訪頼篤家の二男で、忠虎の実子が早世したため、養子に迎えられ藩主となりました。病弱のため藩政にはあまり関わりませんでしたが、学者、詩人としては優れた才能を発揮し、多くの著作を遺しました。
諏訪 忠厚
(すわ ただあつ)
(1746〜1812)
生来の病弱で、その頃の藩政は専ら2つの家老家に任せる体制となっていました。その家老家が藩政を巡って争い、跡目争いまでが絡んだ御家騒動(二之丸騒動)に発展し、事態の収拾のため隠居しました。
諏訪 忠粛
(すわ ただかた)
(1768〜1822)
御家騒動の後を受けて藩主となり、灌漑用水体系の再編成を行い、耕地の開発を進めたほか、藩校長善館を設立しました。
諏訪忠恕
(すわ ただみち)
(1800〜1851)
正室は松平定信の娘である烈姫。飢饉に備え「常盈倉」という備荒貯蓄の倉をつくったほか、諏訪湖中の島を撤去して湖岸を干拓し農地の拡大を進めました。
諏訪 忠誠
(すわ ただまさ)
(1821〜1898)
松平定信を外祖父に持ち、寺社奉行、若年寄、老中など幕府の要職を歴任しました。第二次長州征伐に反対して老中を辞職したほか、和田峠で水戸天狗党と戦うなど、幕末の動乱をかいくぐった藩主でした。
諏訪 忠礼
(すわ ただあや)
(1853〜1878)
分家諏訪頼威の二男で、忠誠の男子が早世したため養子に迎えられ藩主となりました。版籍奉還後、藩知事、県知事となり、華族に列せられて子爵となりましたが病弱で26歳で亡くなりました。
諏訪家の家紋
梶はクワ科の落葉高木で、布や紙の原料になり、また神事の際に幣帛として用いられる神聖な植物とされています。古くから諏訪社の神紋に定められており、梶は諏訪明神を表すものとして知られていました。高島藩主諏訪家も諏訪明神の末裔としてこの紋を使っています。初めは定型的ではなかったと見られ、いくつかのパターンが知られていますが、江戸時代以降しだいに整備されたと考えられ、現在では上社は根が4本ある四本梶、下社は根が5本ある五本梶となっています。藩主諏訪家はこの四本梶をさらに丸で囲んでいます。
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